『生きている麹菌』(これは小説です)

『生きている麹菌』



 警察は任意の事情聴取と称して、マネージャー氏の身柄を拘束、証拠隠滅を避けるためマネージャー氏は留置所入りとなった。留置所とはたちの悪い宿泊所のことである。
 おまわりさんは言った。
「この端麗純米大吟醸酒を客にふるまったのはあなただけだ。犯人はまさにあなたで決まりである。毒をもったのはどういうわけか白状してはどうか。いつどんな毒を混ぜたんだ」
 マネージャー氏は言った。
「わたしはなにもしていません」
 おまわりさんは威圧的だった。
「状況を見たらどうだ。あなたと客がいて、日本酒を飲まなかったあなた以外みんな死んでしまったのだぞ」
 マネージャー氏は懇願するように言った。
「おまわりさん、わたしは酒をふるまっただけですよ。残った日本酒は調べたんですか、毒があるかどうか」
「調べた。毒はない。さあ白状したまえ。いま白状すれば執行猶予もあるかもしれぬ。しかしそうでなければ永遠に刑務所暮らしだぞ!」
「黙秘権を使います」
「ほおぉ」
 人を人とも思わない取調べが強行された。なにを言っても無駄である。マネージャー氏は心根いかれてしまった。

 実は警察は現場で採取されていたわずかな日本酒の科学的鑑定を依頼していた。重大案件である。残ったわずかの日本酒を科学捜査研究所、いわゆる科捜研に送っていたのだ。
 そして事件発生後一週間、サンプルのDNA鑑定をした科捜研の研究員は告げた。
「原因は野生の麹です」
 おまわりさんはいぶかしげに、そしていささか力抜けして言った。
「野生の麹ですか?」
「そうです」
 日本酒はお米を麹菌で発酵糖化する必要がある。そして野生の麹には毒を持つものがある。それが日本酒を製造する過程で使われた麹に混入したことが疑われた。
 おまわりさんは言った。
「麹というのはみんな天然のものだと思っていました」
 鑑定した研究員は言った。
「むかしは天然の麹菌を利用した『自然種付け法』という時代もあったようですが、いまでは、性質のよい麹菌を保存して種にする『友種法(ともだねほう)』が主流になっているようです」
「なるほど」
 おまわりさんは思案した。
「それでは、つまり麹菌にはいろいろある」
「そうです」
「そして『友種』という人が保存しておいて使った麹菌に、天然の麹菌が混入したということですか?」
 鑑定した研究員は言った。
「そのとおりです。『友種』に混入した天然の麹がたまたま毒を持っていたのでしょう」
「なるほど。毒麹ですか。それで毒性は?」
「肝臓がんの可能性を疑われるもの。ヒトに感染してさまざまな病気をひき起こすもの、などなど」
「たちまち翌日に人を死に至らせるような毒は?」
「たちまちに」
「翌日に」
「いまのところは、なんとも‥‥」
 おまわりさんは眉間にしわを寄せて言った。
「日本酒の製造過程でたまたま毒を持った麹菌が混入した」
「そうです」
「それは百パーセント確実ですな」
 鑑定した研究員は言った。
「いや、百パーセントはありません。科学的にそう疑われるということです」
「そうですか」
「生物は物理や数学の世界とはちがいますから」
 おまわりさんは次なる行動に出た。すなわち酒の作り手、当該日本酒の仕込み場、いわゆる酒蔵にいた三人のもろみ作り全員が、任意の事情聴取と称して拘束され、とんとん拍子、証拠隠滅のおそれがあるとして留置所入りとなった。
 おまわりさんは言った。
「あなたたち三人は全員もろみ作りの専門家ですね。そもそももろみとはなんですか?」
 もろみ作りの一人が言った。
「もろみとは、お米を麹と酵母によってアルコール発酵させた段階のものである」
 おまわりさんは言った。
「その発酵では麹を使い、そして、そのだな、殺人事件で疑われている日本酒を作られた。間違いありませんな?」
 三人ともうなずいた。
「そうです」
 おまわりさんは言った。
「出来栄えはどうでしたか?」
 もろみ作りの一人が言った。
「出来栄えには自信がありました。そうでなければ世に出しませんから」
「あなたは?」
 別のもろみ作りが言った。
「わたしも世に出して恥ずかしくない酒だと思います」
 残りの二人がうなずいた。
 おまわりさんは言った。
「わたしは日本酒の作り方といえば素人でね。一つ教えてほしいんだ。いったいどういう手段で自慢の端麗純米大吟醸酒を毒入にしたんだ」
 三人が三人とも身に覚えのないことだった。
 しかし中の一人が口を開いて言った。
「急性アルコール中毒じゃないんですか?」
「ちがう」とおまわりさんは言下に否定した。「急性アルコール中毒なんかじゃないんだ」
「お言葉ですが、どうしてちがうとわかったのです?」
 おまわりさんはイラついて言った。
「新潟五百万石酒造好適米を使った端麗純米大吟醸酒を飲んでとかいうイべントで、あなた方は知らんでしょうが、コップ一杯も飲んでおらん人までが死んでおるのだ」
「試飲会ですか」
「そうだ」
 おまわりさんは麹菌については口を閉ざし、犯罪者の立件、事件の解決に全力をあげることにした。

 結局酒を振舞ったマネージャー氏も、酒を造った杜氏三人も疑いが晴れることはなく、起訴され刑事裁判となった。仮にも天然の麹菌が犯人では商売上がったりである。おまわりさんの作った資料から検察の描いた筋書きはこうだった。新潟五百万石とライバルの関係にある兵庫の山田錦が、新潟五百万石の地位を失墜させブランド日本酒市場を独占しようともくろんだ。当該マネージャー氏は当該杜氏三人が共同経営する酒造メーカーにやとわれた。なぜか。杜氏三人の酒造メーカーは東北地盤で新潟五百万石を誇りに酒造りをしているというのに。それはこうだ。酒造メーカーは赤字続きであるから当然経営を立て直す必要にせまられている。この酒造メーカーは、当該新潟五百万石端麗純米大吟醸酒をブランド化する必要があったが、大きな借金をかかえて一朝一夕で成し遂げられるものではない。そんなおり、酒造好適米山田錦側の某氏より当該杜氏三人はひそかに買収を持ちかけられた。莫大な金が入る。杜氏三人はその大金に目がくらんだ。たとえ新潟五百万石が地に落ちわが新潟五百万石端麗純米大吟醸酒の地位が落ちても、それは一時の話ではないか。取引成立。事件関係者の全員が、しかしながら人一人とて毒殺するほどの悪意はなかった。それがたまたま何かの間違いで、混入した毒が強くなりすぎ、現場にいた客の全員が死亡した。
「まったくふてぇ悪人たちだぜ」

 いよいよ裁判になった。検察の論告求刑、そして弁護人の意見陳述が始まった。弁護人はいわゆる即独・宅弁の負け組弁護士だったが、理学部出身で司法試験合格という異色の経歴だった。彼の描いた作戦はこうだった。検察側はさまざまなことを言ってきたが、ある一点を突き崩せば、悪くてもあとは証拠不十分、推定無罪である。そして冤罪を生み出す警察権力のあこぎを世に訴えることもできる。
 情熱の源は罪もない庶民を食い物に肥え太る公的権力があれば立ち向かう、まさに正義感である。

 まだ若き弁護士は言った。
「検察の描くストーリーは真実を覆い隠したもので、容認しがたいものです。なぜなら、検察は麹菌のDNA鑑定の結果を公表していないからです」
 裁判長は言った。
「それはどういうことですか?」
「検察は科捜研に送ったであろう麹菌のサンプルの結果を明らかにしていないであろうと考えます」
 検察は言った。
「異議あり。現場の日本酒はすでに片付けられ残っていなかったはず。弁護人は推測でものを言っている」
 裁判長は言った。
「異議を認めます」
 若い弁護人は言った。
「しかし裁判長、仮に推測であったとしても、今回の事件に重要な資料となりうる可能性があるので今しばらく続けさせてください」
「異議あり」
 裁判長は言った
「推測であっても重要な資料となりうるのですね。異議を却下します。では弁護人、ごく手短に」
 若き弁護士は聡明な目を輝かせて言った。
「ありがとうございます裁判長。信じられないかも知れませんが、菌類も生き物ですから、生き延びるために毒を持つこともあるのです。フグが毒を持ったのも敵から身を守り生き延びるためです。キノコも麹菌と同じ菌類の仲間ですが、進化の過程で毒を持つようになったと考えることもできます」
「毒キノコですか」と裁判長。
「異議あり」と検察側があわてて主張した。「まったくもって菌類の毒については、仮にどこかにDNA鑑定があったとして初めて有意義になりうる話、それに天然の麹菌の毒性は即座に、いや二日三日、あるいは翌日に人を死に至らしめるほどには強くないはずである。また同時にフグ毒を持ち出すことにも異議があります」
 裁判長は言った。
「フグ毒について異議を認めます。しかしフグ毒についてはともかく、麹菌はキノコと同じ菌類なのですね。わたしは長い裁判官という仕事柄、毒キノコが食後数時間で人を急死させた案件を知っていますぞ。では弁護人、そのような可能性があるのなら続けてください」
 弁護人は持参した資料を証拠として提出し、たちまちにして主張した。
「1960年にイギリスで10万羽以上の七面鳥が死亡した事件の原因物質を出したのがアスペルギルス・フラバスという麹カビの一種でした」
「コウジカビですか?」
「そうです」
「日本酒醸造に使う麹菌は、分子生物学ではアスペルギルス・オリゼと呼ばれるカビで、アスペルギルス・フラバスの子孫です」
 すなわちアスペルギルスという家の中に、今日のオリゼがいて、オリゼはフラバスの子孫というわけである。
 若き弁護士は続けた。
「さて日本では知られていませんが、資料を参照してください。そのとき数名の人がその日のうちに死亡していることが確認されています。鳥インフルエンザが人に感染し人を死に至らしめることはみなさん知っておられるでしょう。同じことが麹菌の毒についてもいえるわけです」
「異議あり」検察側は言った。「弁護人はインフルエンザウィルスを麹菌の毒と同じ性質を持つかのように説明している。しかしウイルスと菌類とではまったくちがう生き物である。論理に飛躍がある。よってその資料は到底証拠として容認できない」
「弁護人」と裁判長は言った。「菌類とウイルスとの関連について、いまの検察側の指摘に対して何か意見はありますか?」
「もちろんウイルスと菌類はちがうものです。しかし同時に、共に細胞を破壊し時には生き物を死に至らしめることにはちがいがありません。そしてともに変異しすなわち性質が豹変することにちがいがありません。鳥インフルエンザも人には感染しないといわれていましたが、変異によって感染するようになりました。そのような結果多くの種類があることが常識として知られています。そしてたとえばアスペルギルス・フラバスの子孫にはオリゼ以外に一千種類近くもが知られています」
 さらに弁護人は付け加えて言った。
「このような場合、当然明日明後日にはどんなウイルスや菌類が生まれ出てくるのか予測できません。ですから少なくとも当初は原因不明として処理され闇に葬られる人や生き物の死亡例が後を絶ちません。二十一世紀になって認知され始めたエボラ出血熱も1976年の当初はそんな状況だったのです」
 裁判長は言った。
「興味深い話です。いうならば今現在、地球上では未知の毒、原因不明の毒によって汚染された空気や食品などが人や家畜を死に至らしめているということですか」
「そのとおりです」
「いま麹菌に話を戻したいのですが、日本酒の麹菌とはいえ、麹菌には種類がいろいろあるわけですね」
「そうです。日本酒の麹にもいろいろ、そしてその他、身近で有益なものとして知られている麹菌に限っても、(鰹節の発酵に使われるもの、タマリ、味噌しょうゆの製造などに使われるものを含めれば)知られているだけでも数百種類。そして有害なもの、(ピーナッツやピスタチオなどのナッツ類に発生するもの)、そして将来生まれ出てくるものを含めれば、無数といってよいのではないでしょうか」
裁判長は言った。
「今回考えられる具体的なものとしては?」
「アフラトキシン類の毒を生み出すアスペルギルスでしょう」
 弁護人は次なる資料を提出した。
「民間の研究機関に依頼したもので、酒蔵で採取されたすべての麹菌のDNA鑑定の結果と、各麹菌の出す毒性についてのデータです」
 酒蔵の酒樽はもちろん、柱、梁、天井、空気中といった天然ものの麹菌、そして人が保存し今回使用された、いわゆる人が保存して今回使われた麹菌そして麹菌の分泌する物質のすべてのDNAデータが公表された。
「異議あり」と検察側が主張した。「その資料が証拠として採用されることに反対。なぜなら事件現場は事件発生直後にすでに片付けられており、証拠となる日本酒は残されていなかったはずだからである。よって酒蔵で採取された麹菌のDNAは、必ずしも当該日本酒の製造過程で混入したと証明することはできないからである」
 裁判長は言った。
「たしかに現場の状況からして、すでに証拠となる日本酒がなかったので、弁護人が提出したデータが証拠となる根拠が認められませんね。よって異議を認めます」
「裁判長」と顔をこわばらせて弁護人は言った。
「弁護人」
「おそれ多いかもしれませんが、いま異議を認めたことに異議があります」
 裁判長は言った。
「それではいまの検察側の指摘に対して何か反論ないし意見があるのですか?」
 弁護人は言った。
「裁判長。それでは言わせてもらいますが、検察は嘘を言っています。たしかに事件現場は最初の被害者が確認される前に片付けられ重要な証拠となる日本酒はなかったかもしれません。仮にそうだとしましょう。しかしながら、現実問題として、警察は科捜研に当該事件で振舞われた日本酒の資料を送りDNA鑑定しているからです」
 検察は間髪いれずに言った。
「異議あり!」
 裁判長は言った。
「異議を認めます。弁護人は推測でものを言ってはいけません」
「裁判長」と弁護人はむっとして言った。
 若き弁護人の手にはウィキバクロスのサイトで見つけた機密文書が握られていた。切り札である。ウィキバクロスとは主として市民国民を支配する権力者が、市民国民を支配するため、権力者ゆえに権力者だけが持ちうる機密情報を、一般の市民国民に公開することを目的に開設された、知る人ぞ知るいわゆるディープディープで星をちりばめたような闇サイトである。
 裁判長は言った。
「弁護人」
 弁護人は言った。
「わたくし弁護人は、秘匿性の高いことで知られる某ネット上で閲覧可能なサイトより得た科捜研の機密文書から、ここに当該事件後警察が現場に残された日本酒を分析したデータを、新たに証拠として提出いたします」
 検察はすかさず言った。
「異議あり!
 資料を目にした裁判長は言った。
「いったん休廷とします」

「……」
 裁判長ははじめ半信半疑なまなざしであったけれど、資料をくまなく精査し、自身の経験と知見を動員した。これは以前別の事件事例で目にした科捜研の資料と見比べても本物と言いえるものだった。パソコンに向かって資料にあったアドレスを入力すると、たしかにそれは存在した。
 裁判長は確信を得て言った。
「これはタイヘンな資料だ。出所についてはともかく目をつぶることにしよう」

 開廷すると裁判長は言った。
「検察側の異議を却下します。新たな証拠として認めます」
 若き弁護人は淡々とその資料を提出し、言葉を続けた。
「ここで警察が行った当該日本酒に残された麹菌のDNA鑑定の結果、その毒性、そしてわたしが民間の研究機関に依頼し、判明した麹菌のDNA鑑定の結果、その毒性を比較していただきたいと思います」
 弁護人の提出した某ネット上のウィキバクロスからという資料は、長き裁判官としての仕事柄経験上も疑いもなく、たしかに科捜研の資料といってよいものだった。
裁判長はつぶやいた。
「急性ヒトアフラトキシン中毒のたぐいですか」
 酒蔵で採取された天然の麹カビの毒性が当該日本酒に含まれそして人を死に至らしめたアフラトキシン類の毒性と一致していた。裁判長は目を見張った。とするなら、天然から隔離された、酒蔵で杜氏三人がもろみづくりに使った麹には罪はないことは明らかである。
 弁護人は言った。
「この酒蔵の空気中から採取した毒麹を被告である杜氏三人が故意に使ったとは到底考えることはできません」
 裁判長は言った。
「弁護側の主張に対し、検察側は何か反論すべき資料なり意見はありますか?」 
 検察側は力なく言った。
「いいえ裁判長」






著者よりの注:即独・宅弁とは、弁護士バッジを手にして即座に独立し、自宅を事務所として開業する弁護士のことである。また、これはSF的な要素を持った作品であり、可能性は否定できないまでも、あくまでフィクションであります。


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